起業家・田中平八のサクセスストーリーは、利益追求だけでは終わりません。横浜に、水道設備の費用を自ら調達し、ガス灯も設置。また、弁天地区の埋め立てを行うなど、公益にも大いに力を尽くしました。
40歳になると東京へ進出。会社を興して米穀売買を取り仕切り、兜町に株式取引所が開設されると、株の売買で「兜町の飛び将軍」と謳われるほどでした。
ほかにも、第二国立銀行の発起人にも名を連ね、自らも第百十二銀行や田中銀行を起こすなど、金融界でも辣腕をふるいました。
晩年には、静養先の熱海で私財を投じて水道を敷設、小田原・熱海間の電信線の架設を実現するなど、明治17年に51歳で没するまで、幅広い活躍を続けました。そうした功績が評価されて、没後の明治24年には、東京向島に伊藤博文の書による「天下之糸平」と彫られた巨碑が建てられました。
写真:向島・木母寺の石碑 |